2011年08月15日
両親の遺訓 平和とは
今日は8月15日。お盆期間中で、田舎へ帰省されている方もおられるかと思います。
8月15日は太平洋戦争が終結した日、終戦記念日です。
あなたの実家の仏壇の近くに、太平洋戦争で戦死した軍服姿の親戚のおじさんの写真が飾ってありませんか?
私は毎年、8月15日は『平和』について考えます。
これから書くことは、以前読まれた方がおられるかも知れませんが、私が娘達に戦争の怖さを伝えるために毎年書いていることです。
私は戦後生まれなので、当然戦争を知りません。
でも子供の頃、大人達から戦争の話を聞かされてきました。
親戚の家やご近所の仏壇を見ると、若いお兄さんの軍服姿の写真が飾ってあって、子供ながらに戦争で死んだ方らしいと思っていました。
父は戦場には行っていませんが、長崎県大村市の海軍工廠でゼロ戦などの飛行機を作り、テストパイロットをしていました。
完成した戦闘機の操縦かんを握り、急上昇やきりもみテストをしているうちに、機体の制御が利かなくなり、そのまま地上に激突して死んだ仲間もたくさんいたそうです。
昭和20年8月9日に長崎に原爆が投下されました。父は原爆のきのこ雲を大村から見たそうですが、軍部が情報を統制したため、当初は「新型爆弾が長崎に落ちたらしい」と聞かされていたそうです。
しかし、長崎方面からやけどをした負傷者が続々と逃げてきたため、原爆の脅威が知れ渡りました。
父も負傷した方の手当てをしたそうですが、「水をください」と言ったまま目の前で亡くなられた方もおられたそうです。
今思えば、父は故意に子供の私たちに原爆の恐ろしさを教えていたようです。父も母も、「戦争は恐ろしい」と言っていました。
修学旅行で長崎の平和公園にある原爆資料館に立ち寄った時、焼けただれた瓶や、黒こげ遺体の写真、やけどした被災者の写真を見たとき、「父が話していたことは本当だ」と思いました。
父は晩年「ゼロ戦をもう一度見たい」「知覧特攻平和会館に行きたい」と言っていたため、弟が案内して鹿児島で見学してきました。
どうやら父は、自分が作った飛行機で亡くなった特攻隊のパイロットの皆さんの、慰霊に行きたかったようです。
弟が言うには、父は資料室からなかなか出てこなかったので、弟は心配して迎えに行ったそうです。
母は終戦直前に電話局の交換手をしていました。当時は交換手が電話を手動式で取次するのが一般的でした。
実家の佐賀県多久市は炭鉱町で、工業や軍艦のエネルギーとなる石炭を出荷していました。
終戦直前にアメリカ空軍は、多久駅周辺を爆撃しました。母が空襲警報を聞いて電話交換室のある2階から1階へ降りようとした時、アメリカ軍の戦闘機が放った機銃掃射の弾丸が、母の目の前を通過し壁を貫通したそうです。
母があと一歩早く階段を下りていたら、当然母は即死。私はこの世に生を受けていません。
母も父と同じように、時折思い出したように戦争の話をしていましたが、特に広島に原爆が落ちた8月6日から、終戦記念日の8月15日の間には必ず聞かされていました。
沖縄にはむごい話がたくさん伝わっていますが、私の両親の話も太平洋戦争の歴史の中の小さな一部でしかありません。 私たちは戦後の混乱期に頑張った大人達に守られて今の暮らしが成り立ちました。
3月11日の東日本大震災と東京電力の原発事故で、いま日本は混乱しています。先人たちに倣い、我々大人は子供たちを守り、未来を明るくする必要に迫られています。
我々日本人は今度の東日本大震災で、弱い者同士が助け合う「絆」が世界一強いことを改めて思い返しました。
一人の力は小さいですが、まずは節電など自分でできることから始めましょう。
そして戦争の怖さを忘れないようにしましょう。
8月15日は太平洋戦争が終結した日、終戦記念日です。
あなたの実家の仏壇の近くに、太平洋戦争で戦死した軍服姿の親戚のおじさんの写真が飾ってありませんか?
私は毎年、8月15日は『平和』について考えます。
これから書くことは、以前読まれた方がおられるかも知れませんが、私が娘達に戦争の怖さを伝えるために毎年書いていることです。
私は戦後生まれなので、当然戦争を知りません。
でも子供の頃、大人達から戦争の話を聞かされてきました。
親戚の家やご近所の仏壇を見ると、若いお兄さんの軍服姿の写真が飾ってあって、子供ながらに戦争で死んだ方らしいと思っていました。
父は戦場には行っていませんが、長崎県大村市の海軍工廠でゼロ戦などの飛行機を作り、テストパイロットをしていました。
完成した戦闘機の操縦かんを握り、急上昇やきりもみテストをしているうちに、機体の制御が利かなくなり、そのまま地上に激突して死んだ仲間もたくさんいたそうです。
昭和20年8月9日に長崎に原爆が投下されました。父は原爆のきのこ雲を大村から見たそうですが、軍部が情報を統制したため、当初は「新型爆弾が長崎に落ちたらしい」と聞かされていたそうです。
しかし、長崎方面からやけどをした負傷者が続々と逃げてきたため、原爆の脅威が知れ渡りました。
父も負傷した方の手当てをしたそうですが、「水をください」と言ったまま目の前で亡くなられた方もおられたそうです。
今思えば、父は故意に子供の私たちに原爆の恐ろしさを教えていたようです。父も母も、「戦争は恐ろしい」と言っていました。
修学旅行で長崎の平和公園にある原爆資料館に立ち寄った時、焼けただれた瓶や、黒こげ遺体の写真、やけどした被災者の写真を見たとき、「父が話していたことは本当だ」と思いました。
父は晩年「ゼロ戦をもう一度見たい」「知覧特攻平和会館に行きたい」と言っていたため、弟が案内して鹿児島で見学してきました。
どうやら父は、自分が作った飛行機で亡くなった特攻隊のパイロットの皆さんの、慰霊に行きたかったようです。
弟が言うには、父は資料室からなかなか出てこなかったので、弟は心配して迎えに行ったそうです。
母は終戦直前に電話局の交換手をしていました。当時は交換手が電話を手動式で取次するのが一般的でした。
実家の佐賀県多久市は炭鉱町で、工業や軍艦のエネルギーとなる石炭を出荷していました。
終戦直前にアメリカ空軍は、多久駅周辺を爆撃しました。母が空襲警報を聞いて電話交換室のある2階から1階へ降りようとした時、アメリカ軍の戦闘機が放った機銃掃射の弾丸が、母の目の前を通過し壁を貫通したそうです。
母があと一歩早く階段を下りていたら、当然母は即死。私はこの世に生を受けていません。
母も父と同じように、時折思い出したように戦争の話をしていましたが、特に広島に原爆が落ちた8月6日から、終戦記念日の8月15日の間には必ず聞かされていました。
沖縄にはむごい話がたくさん伝わっていますが、私の両親の話も太平洋戦争の歴史の中の小さな一部でしかありません。 私たちは戦後の混乱期に頑張った大人達に守られて今の暮らしが成り立ちました。
3月11日の東日本大震災と東京電力の原発事故で、いま日本は混乱しています。先人たちに倣い、我々大人は子供たちを守り、未来を明るくする必要に迫られています。
我々日本人は今度の東日本大震災で、弱い者同士が助け合う「絆」が世界一強いことを改めて思い返しました。
一人の力は小さいですが、まずは節電など自分でできることから始めましょう。
そして戦争の怖さを忘れないようにしましょう。