2012年08月15日
終戦記念日に思うこと
8月15日は終戦記念日。
毎年この日は、両親の戦争体験を思い出します。
父は大村の海軍工廠でゼロ戦などを製造し、テストパイロットでした。
父は、「前線に行かなくてもテストパイロットとして、テスト飛行中に墜落して死亡した仲間がたくさんいた。俺は運が良かった」と言っていました。
父は長崎に原爆が落とされた後、大村に避難してきた人々の救護活動もしています。
「水をください」と懇願されて水を飲ませると、そのまま亡くなる方が多かったそうです。
母は、多久市で電話交換手をしていました。
炭鉱町の多久も、エネルギー供給地として米軍の空襲を受けました。
空襲時に母は、電話交換室の2階から防空壕へ逃げ込もうとしたのですが、階段を下りているときに、目の前を戦闘機から発射された弾丸が木造の壁を貫通して通過したそうです。
母は「あと1歩早く階段を下りていたら、弾が貫通して私は死んでいた。そしたら、お前たちは生まれていなかった」と、時折我々子供3人に説明してくれました。
子供心に怖いと思っていました。
この話を、私は娘達に伝えています。
毎年この日は、両親の戦争体験を思い出します。
父は大村の海軍工廠でゼロ戦などを製造し、テストパイロットでした。
父は、「前線に行かなくてもテストパイロットとして、テスト飛行中に墜落して死亡した仲間がたくさんいた。俺は運が良かった」と言っていました。
父は長崎に原爆が落とされた後、大村に避難してきた人々の救護活動もしています。
「水をください」と懇願されて水を飲ませると、そのまま亡くなる方が多かったそうです。
母は、多久市で電話交換手をしていました。
炭鉱町の多久も、エネルギー供給地として米軍の空襲を受けました。
空襲時に母は、電話交換室の2階から防空壕へ逃げ込もうとしたのですが、階段を下りているときに、目の前を戦闘機から発射された弾丸が木造の壁を貫通して通過したそうです。
母は「あと1歩早く階段を下りていたら、弾が貫通して私は死んでいた。そしたら、お前たちは生まれていなかった」と、時折我々子供3人に説明してくれました。
子供心に怖いと思っていました。
この話を、私は娘達に伝えています。