2009年08月17日
終戦記念日と私
8月15日は、盂蘭盆の最後の日であると同時に、終戦の日でもありました。
戦後生まれの世代が増え、戦争体験者が高齢化して、戦争体験の語り部が急激に減ってきています。
小泉政権の時から、実質的な海外派兵が始まりました。私から言わせれば、いつまでアメリカの太鼓持ちをしているのかと、思いたくなります。
「多国籍軍の艦船の、燃料補給の後方支援のみをしています」とは名目のみで、実質的には殺人者の後方支援をしていることと同じだと、私は思っています。
国内で殺人幇助は罪になります。
海外で殺人幇助をしていて、罪にならないのはおかしいと思います。
屁理屈と膏薬はどこにでもくっつくと言いますが、まさに小泉さんと自民党は、郵便局の民営化を旗印に圧勝したことを逆手に取り、衆議院で過半数以上の議席を取ったことを「小泉が言うことは何でもあり」とばかりに、勝手に無茶な法律を作り無理を通したのです。
要は、国民を騙した詐欺師です。こんな議員や政党を、いつまでものいさばらせてはいけません。
中国の力が増し、いつまでもアメリカべったりとは行かない時代が来ました。
世界平和に貢献するには、日本がどうあるべきか真剣に考える時期だと思います。
私は終戦念日や、広島と長崎に原爆が投下された日だけでなく、何らかのきっかけがあると両親の戦争体験の話を、娘達に話します。
私は、戦争体験はありません。
ただ、両親の戦争体験を子供の頃から聞かされていたので、両親の戦争体験を子孫に伝えたいと思ってきたのです。
父は終戦の頃は長崎県大村市の海軍工廠にいました。
海軍航空隊のパイロットの入門機俗称「赤とんぼ」から、名戦闘機ゼロ戦までを組み立て、最後にテスト飛行をするテストパイロットの担当をしていたそうです。
当然ですが、テスト飛行には超高度飛行やきりもみ飛行、急降下のテストも入っていたそうです。
「急降下から急上昇のテスト飛行中に、そのまま地面に激突して死んだ仲間が何人もいる。父ちゃんは運が良かった」と、ぽつりぽつりと話していました。
長崎に原爆が投下された日、父は大村から原爆雲を見ています。
当時は厳重な箝口令が敷かれていたので、当初は何が起こったのかわからなかったそうです。
ところが、長崎方面から被爆者が続々と大村に避難してきたため、新型爆弾が長崎に投下されたことを全員知りました。
父は口に出してはっきりとは言いませんでしたが、「戦争が大嫌いでした」。
仲間が何人も死に、原爆被災者を自分の目で見て、戦争の悲惨さを体験したからだと思います。
母は終戦の頃、地元の佐賀県多久市で電話交換手をしていました。
現在のNTTの前身で、当時は逓信省に属していました。
ちなみに、現在は市外局番をつけて発信すれば全国どこでもつながりますが、当時は1回1回、電話交換手が手動で接続する時代でした。
多久は炭鉱町で、終戦間際には米軍から狙われていたらしく、米軍機の攻撃を受けました。
母は空襲警報のサイレンの音を聞き、電話交換台から離席してあわてて防空壕に逃げ込もうとしたそうです。
電話交換室は2階にあったため、母が1階に向かって階段を降りかけたら、腹部付近の直前を米軍機の放った機関銃の弾丸が横切りました。
まさに危機一髪でした。
母は生前、「あの時、あと半歩か1歩早く階段を下りていたら、私は即死していた。もちろん、あの時私が死んでいたら、お前達は生まれとらんやった・・・」と、機会があるたびに私達3人の子供に話していました。
母の一番上の兄は現在の北朝鮮で警察官をしていて、終戦後シベリアに抑留され、かろうじて日本に帰国しました。
長男が帰ってくるのを、母方の祖母がとても心配していたと、私は聞かされました。
母の2番目の兄は、陸軍のバリバリの軍人でした。母は、2番目の兄がどちらかというと嫌いでした。
兄が酒で酔うと、戦争中の話ばかりしていたので、嫌いだったようです。
私も母の影響か、2番目の叔父さんが好きになれませんでした。
私の終戦に関わる記憶はこれだけです。でも、父が怖い思いをしたこと、母が機銃掃射の弾丸を受けていれば、私が生まれなかったこと。
子供の頃から何度も聴いた話は、決して忘れません。私は、両親の体験を娘や子孫に伝えるのは義務だと思っています。
戦争は結局、弱者である一般市民が犠牲になります。日本は絶対戦争に加担してはいけません。
知人のN氏の父親は、N氏を抱く前に戦死されました。
N氏は昨年東京で開催された全国慰霊祭に参加しましたが、父親の愛情を知らないことを私に話す時は、とても辛そうでした。
8月末には総選挙が実施されます。
色んなマニュフェストが政党から発表されていますが、日本が世界平和にどうやって貢献するかも大切な論点だと思っています。
皆さんの1票が日本丸の進路を決定します。
棄権しないで、投票しましょう。
戦後生まれの世代が増え、戦争体験者が高齢化して、戦争体験の語り部が急激に減ってきています。
小泉政権の時から、実質的な海外派兵が始まりました。私から言わせれば、いつまでアメリカの太鼓持ちをしているのかと、思いたくなります。
「多国籍軍の艦船の、燃料補給の後方支援のみをしています」とは名目のみで、実質的には殺人者の後方支援をしていることと同じだと、私は思っています。
国内で殺人幇助は罪になります。
海外で殺人幇助をしていて、罪にならないのはおかしいと思います。
屁理屈と膏薬はどこにでもくっつくと言いますが、まさに小泉さんと自民党は、郵便局の民営化を旗印に圧勝したことを逆手に取り、衆議院で過半数以上の議席を取ったことを「小泉が言うことは何でもあり」とばかりに、勝手に無茶な法律を作り無理を通したのです。
要は、国民を騙した詐欺師です。こんな議員や政党を、いつまでものいさばらせてはいけません。
中国の力が増し、いつまでもアメリカべったりとは行かない時代が来ました。
世界平和に貢献するには、日本がどうあるべきか真剣に考える時期だと思います。
私は終戦念日や、広島と長崎に原爆が投下された日だけでなく、何らかのきっかけがあると両親の戦争体験の話を、娘達に話します。
私は、戦争体験はありません。
ただ、両親の戦争体験を子供の頃から聞かされていたので、両親の戦争体験を子孫に伝えたいと思ってきたのです。
父は終戦の頃は長崎県大村市の海軍工廠にいました。
海軍航空隊のパイロットの入門機俗称「赤とんぼ」から、名戦闘機ゼロ戦までを組み立て、最後にテスト飛行をするテストパイロットの担当をしていたそうです。
当然ですが、テスト飛行には超高度飛行やきりもみ飛行、急降下のテストも入っていたそうです。
「急降下から急上昇のテスト飛行中に、そのまま地面に激突して死んだ仲間が何人もいる。父ちゃんは運が良かった」と、ぽつりぽつりと話していました。
長崎に原爆が投下された日、父は大村から原爆雲を見ています。
当時は厳重な箝口令が敷かれていたので、当初は何が起こったのかわからなかったそうです。
ところが、長崎方面から被爆者が続々と大村に避難してきたため、新型爆弾が長崎に投下されたことを全員知りました。
父は口に出してはっきりとは言いませんでしたが、「戦争が大嫌いでした」。
仲間が何人も死に、原爆被災者を自分の目で見て、戦争の悲惨さを体験したからだと思います。
母は終戦の頃、地元の佐賀県多久市で電話交換手をしていました。
現在のNTTの前身で、当時は逓信省に属していました。
ちなみに、現在は市外局番をつけて発信すれば全国どこでもつながりますが、当時は1回1回、電話交換手が手動で接続する時代でした。
多久は炭鉱町で、終戦間際には米軍から狙われていたらしく、米軍機の攻撃を受けました。
母は空襲警報のサイレンの音を聞き、電話交換台から離席してあわてて防空壕に逃げ込もうとしたそうです。
電話交換室は2階にあったため、母が1階に向かって階段を降りかけたら、腹部付近の直前を米軍機の放った機関銃の弾丸が横切りました。
まさに危機一髪でした。
母は生前、「あの時、あと半歩か1歩早く階段を下りていたら、私は即死していた。もちろん、あの時私が死んでいたら、お前達は生まれとらんやった・・・」と、機会があるたびに私達3人の子供に話していました。
母の一番上の兄は現在の北朝鮮で警察官をしていて、終戦後シベリアに抑留され、かろうじて日本に帰国しました。
長男が帰ってくるのを、母方の祖母がとても心配していたと、私は聞かされました。
母の2番目の兄は、陸軍のバリバリの軍人でした。母は、2番目の兄がどちらかというと嫌いでした。
兄が酒で酔うと、戦争中の話ばかりしていたので、嫌いだったようです。
私も母の影響か、2番目の叔父さんが好きになれませんでした。
私の終戦に関わる記憶はこれだけです。でも、父が怖い思いをしたこと、母が機銃掃射の弾丸を受けていれば、私が生まれなかったこと。
子供の頃から何度も聴いた話は、決して忘れません。私は、両親の体験を娘や子孫に伝えるのは義務だと思っています。
戦争は結局、弱者である一般市民が犠牲になります。日本は絶対戦争に加担してはいけません。
知人のN氏の父親は、N氏を抱く前に戦死されました。
N氏は昨年東京で開催された全国慰霊祭に参加しましたが、父親の愛情を知らないことを私に話す時は、とても辛そうでした。
8月末には総選挙が実施されます。
色んなマニュフェストが政党から発表されていますが、日本が世界平和にどうやって貢献するかも大切な論点だと思っています。
皆さんの1票が日本丸の進路を決定します。
棄権しないで、投票しましょう。